書物のまほろば

Mahoroba

2006.06.12

「楚囚之詩」のコピーを、自由民権資料館で見つけた。

1月15日の朝、親戚の石阪家の法事に出席する前に、町田市立自由民権資料館を訪れた。

以前、小田急線鶴川駅から野津田の本家まで、駅からタクシーで行き、渋滞に巻き込まれて1時間以上もかかった経験から、今回は、早めに家を出たのだ。鶴川からバスに乗って、予定より1時間も前に着きそうなので、一つ手前の袋橋で降りて、白い瀟洒な建物の資料館に向かった。霜の降りた道を伝って館内に入る。休日の朝で入館者は誰もいず、私が入ると、部屋の電灯をつけてくれた。

 資料館のパンフレットによると、ここは野津田の生んだ民権家・村野常右衛門が、1883年(明治16)に私財をさいて、凌霜館を建てた場所で、村野は、ここに多くの青年子弟を集め、厳しい霜を凌ぐという名の通り、剣術を通して身体と精神を鍛え、同時に自由民権運動思想の学習を盛んに行い、その中から続々と若い活動家が育ち、ここを拠点に民権思想が展開されたという。その跡地に、この自由民権資料館ができたのだ。

 自由民権運動についても、パンフレットの説明を借りる。

   明治の前期、全国各地の都市や草深い農村で、自由と権利を求めた運動が盛り上がり、薩長を中心とした明治藩閥政府に対して、国会開設や憲法制定、あるいは地租の軽減や自治の要求など民主主義の実現を求めた運動。三多摩を含む神奈川県下でも、西の土佐とならぶ活発な動きがあり、なかでも町田地域は、石阪昌孝や村野常右衛門・青木正太郎など有力な指導者を輩出し、結社と呼ばれる組織を作って、政治学習運動が燎原の火のように燃え上がったのです。その後、民権運動は弾圧されますが、彼らが刻んだ歴史は、日本近代史の中でも光っています。

色川大吉氏の著書「明治の文化」(岩波書店)では、草の根からの文化創造としていきなり、この村野常右衛門の生活描写から始まるのだ。

 村野常右衛門がまだ磯吉とよばれていたころ、彼の生家野津田村は、少年にとっては楽しみにあふれて遊戯の世界であった、一月元旦、年が明けると磯吉たちは、新しい着物を着て年始にあるく。二日には、書初め、七日には七草をお雑煮にして食べ、なずなの水でつめを切ったりしたという。(中略) それから、一月一五日のあずきがゆ、二〇日のえびす講、二八日のお不動様と、子供たちには切れ目なしに楽しみがつづいた。

このように、こと細かに一年の描写が続き、

十二月一日は、この地方では「川びたり」といい伝えられ、この日は大水が出るからと誰も家から出なかった。とくに磯吉の家は、川岸にあり、鶴見川の氾濫のたびに、床下やあるときは床上まで水があふれた。その大水のときなど、村人が総出で、水車小屋を守るあわただしさが磯吉たちには、かえっておもしろかった。 

とある。私の父鶴吉も、同じ野津田村の出身で、年代は50年あとになるが、基本的な生活のパターンは、同じだったと思う。父の出征中の日記に、鶴見川の氾濫を心配した文章が出ているし、「水車」と呼ばれた隣の伯父の家には、文字通り水車があった。

 明治5年小笠原東陽という人が、東海道、藤沢の宿に近い鳥羽の村に寺子屋耕余塾を開いたが、この旧姫路藩士の一浪人は、授業のたびに生徒を相模湾の浜につれてゆき、福沢の「世界国尽」をフシをつけて大海にむかって合唱させたという。この東陽先生の寺子屋から、やがて、自由民権運動の中堅リーダーがあまた輩出し、この村野常右衛門もそのうちの一人であった。「明治の文化」には、こういった民権運動のリーダーたちの群像と、困民党の三千とも五千とも一万とも云われた農民たちの意識の相違を鮮明にしている。やがて、自由民権運動が弾圧され、日露戦争以後は、天皇制国家権力のもとに帝国主義の道にはいりこんでいく様子が分析されている。

 資料館では、もう一人の指導者、石阪昌孝について紹介している。

  1841(天保12)から1907(明治40)年、野津田村出身、町田をはじめ神奈川県下の最高指導者。区長、戸長や初代県会議長などを歴任。融貫社の結成や自由党入党・国会の早期解説を求める建白書など、運動の中核となって活躍。また小野郷学の開設にかかり、教育活動にも力を入れ、若い活動家に大きな影響を与えた。のち衆議院議員、群馬県知事。美那子と公歴の父。

「しょうこうさん」と親しまれて呼ばれたが、「井戸塀」政治家として身代は、全て失ったのだ。

さらに、この資料館には北村透谷の「楚囚之詩」のコピーがあった。表題の「見つけた」というと、大げさだが、この本は、幻の本といわれ、現在見つかっているもので、4冊という。(3冊が、戦前の話で、現存するのはこの1冊の原本とも云われている。) 北村透谷は、明治元年、小田原で生まれ、明治18年東京専門学校を卒業している。同じ18年に大阪事件が発覚し、政治から文学へ転向せざるをえなかった。石阪昌孝の子供で石阪公歴と知り合い、公歴の紹介で姉ミナ(美那子)を知り、明治21年11月、二人は周囲の反対を押し切って結婚。式には石阪家は出席しなかったという。

 資料館をのぞいてから、民権運動の資料を漁ってみると、秩父では自由党と困民党が一体となって動いたが、武相困民党と自由党は分離雁行の関係にあったという。色川大吉氏の「困民党と自由党」(揺籃社)によると、「南多摩郡は、自由党員数においても、困民党発生件数においても、県下最高、日本有数の地域であった。」、とある。(南多摩郡は、現在、東京都だが、当時は、神奈川県)

 明治15年に横浜で生糸相場が半分にくずれ、以来三年とどまるところをしらず、翌16年になると公売催告状と共に質入証書や土地売渡証への奥書がめだって忙しくなり、その上、八王子警察署からは新築費の寄付を急げと督促がくる。郡役所までが新築するという。戸長たちが立替払いしていたが、こういった層の人々は、自分達が寄付して建った警察に留置されたりして、やがて没落して行った。

 南多摩郡谷野村の須永漣造は、多摩北部困民党や秩父困民党の敗北の状況から、即効性のある妥協的は方法を選ぶ。明治17年、自由党解党の翌月11月19日、武相困民党は、相模原の原野で事実上の結成大会を開き、政治的には、ほとんど孤立無援のなかで、悲壮な「決議書」や「申合規則」を採決し、それに基づいて横浜の名望家海老塚四部兵衛と、前横浜裁判所長で県会の知友でもある北洲社の立木兼善に仲裁人を依頼して、運動をすすめることにした。これに対して、県令たちは、この団結解体をせまった。八王子警察署長の原田警部は月初めからすでに若林高之助を中心とした、これらの困民党指導者の動静をつかんでいく。部下の木曽分署一智巡査に指令して若林等の動静を細野喜代四部(当時小川村、木曽村等四か村戸長)から詳細な困民党の内報を得ていた。明治18年1月15日困民党幹部が総検挙され、組織を壊滅させられた。

8月15日。暑い一日、妻とふたりで自由民権資料館を再訪。「楚囚之詩」のコピーを写真にとった。それから車で、民権の森を捜す。本家の裏山あたりのはずだから、だいたいの場所は分かっていたが、進入路が分らなかった。近頃できたのか、アパートの住人に、民権の森、石阪昌孝の墓と聞いても、首をかしげ「すみません。分りません。」との返事。しかしすぐ傍のあぜ道を伝っていくと、透谷、美那子の出会いの場所と書かれた自由民権の碑やさらに坂を登ると、石阪昌孝の墓があった。なるほど、これは分らない。妻が「民権の森ってこれだけの場所?」とびっくり。

 色川大吉氏は、その著書「自由民権」(岩波新書)のなかで、自由民権運動を文化革命と規定し、運動そのものを以下のように要約している。

  民権運動は明治維新の革命の課題を日本の人民がひきついたもので、この運動は人民の自由権のうち参政権(政治的自由)をもとめる「国会開設」に最大の焦点があったが、それと共に国民大多数の農民の要求である「地租の軽減」と「条約改正」の実現も重要な目標となった。

この三大要求は、近代的な立憲制の樹立、土地革命の遂行、民族の完全自立の達成を内容とする「市民革命」であることを意味していた。つまり17世紀のイギリスのクロムウェル革命や、18世紀のフランス革命、アメリカの独立戦争などと並ぶ世界史における近代ブルジョア革命の一環だったのである。

時代の先駆者をたたえた民権の森にしては、入り口も分らず、寂しい思いがし、かつ民権の指導者たちと違った困民党の人々の思いは、何処へ行ってしまったのだろうかと考えながら、車に戻った。そしてすぐそばの薬師池で一休みして、夏休みのすいた都内の道路を走って家に戻った。

(この文章は、1991年8月15日に作成。その後自由民権資料館も増築され、民権の森も整備されたようだ。私の遠縁にあたる渡辺奨氏と鶴巻孝雄氏が1997年に「石阪昌孝とその時代―豪農民権家の栄光とその悲惨の生涯」(町田ジャーナル社)を刊行した。)
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2006.03.22

「内容見本」は、死語なのでしょうか・・・


私は、高校生の頃、よく本屋さんや神田あたりの出版社をたずねて、内容見本や図書目録を貰い歩いたものでした。本に興味があったし、お金は無いし、内容見本を集めて、内容見本に何度も眼を通して、掲載の写真を眺めたり、出版の経緯などを読んだりして感心していたものでした。同じようなことを紀田順一郎さんが、「内容見本に見る出版昭和史」(本の雑誌社刊)のあとがきの中で、述べられていました。今の岩波書店の前あたりにあった、蔦のからまった古い岩波の社屋も記憶があるし、出版社の住所をみて、この出版社は、以前は神田にあったのに、なんて思ったりします。出版社を訪れたのは、小川菊松著「出版興亡五十年」という本を読んだのも、一因かも知れません。この本も出版に関する様々な話が載せられ、大変面白いものでした。

 目下、この内容見本を販売しています。お陰様でこれまでに、色々な内容見本を販売することができました。私ども以外でも、内容見本を販売している本屋さんは、結構みかけますが、「まさか、古い資料が見つかるとは思いませんでした。」などと嬉しいメールを頂くと、私も大変嬉しい思いが致します。

 一方、ネットで内容見本のタイトルを見て、「500円で○○全集が買えるのですか?」との問い合わせを頂いたり、「内容見本てなんですか?」とか「内容見本とは、どんな本ですか?」といったお問い合わせも頂く。そんなお客様には、内容見本とは、出版社が全集や事典などの出版物の宣伝のために印刷したカタログです、と説明させて頂く。さらに、現在刊行中の本の内容見本は無料で入手できますから、集めてみていかがですかと声をかけたりもしています。こういった質問が多いところを見ると、「内容見本」という言葉は、既に死語になってしまったのではないかという思いがしています。ちなみに岩波書店では、「内容案内」という言葉を使用しています。

 内容見本の魅力は、色々あります。例えば、個人全集の内容見本をみれば、その作家の全業績が一目瞭然です。出版社によっては、全集と名前をつけるからには作者の断簡零墨まで、総て収録という編集姿勢のところもあります。また生前本人は、ある作品を全集に収録することを拒んでいたが、その作家の重要な位置づけの作品なのであえてこの作品を収録といったような、いわば楽屋話のような、作家を理解するうえでの重要な話が掲載されていたりしています。

年譜が添えられている内容見本も多いので、実績、経歴が理解でき、さらに著名人の推薦文の内容から、交友関係やら、その作家の作品の特徴を把握することもできます。以前、数名の松本清張のコレクターの方から、清張が書いた推薦文の載っている内容見本を全部欲しいといった注文も頂きました。

また内容見本には、その出版物の出版経緯が語られており、戦争で企画が頓挫していたのを30年ぶりに復活だとか、出版当時の社会背景なども理解できて貴重な参考資料といえます。

 この内容見本を購入される方は、研究者の方、内容見本のコレクター、推薦文を書いている作家のコレクターなどです。 紀田順一郎さんは、「内容見本にみる出版昭和史」で、内容見本を通して昭和の出版史を語っておられます。昨今は、全集の発行が少なくなったし、「豪華内容見本」もあまり見かけなくなりましたが、神田の市場でもたまに、内容見本を見かけますので、在庫のある限り販売して行きたいと思っています。

 内容見本に関して「日本古書通信」に以下の原稿を掲載して頂きました。

日本古書通信 昭和61年7月号(第684号)夢ふくらむ本のかたろぐ

日本古書通信 1993年5月号(第766号)紙屑の山からのめぐり合い
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2006.03.01

グーテンベルグ博物館訪問記


今年の6月、ドイツのグーテンベルグ博物館を見学した。きっかけは、ドイツのデユッセルドルフにいる二女が、遊びに来ないか、と声を掛けてくれたのだ。お陰様で娘の家を基点に、ベルギーのブルージュ、ドイツのロマンチック街道、フランスのパリなど、あちらこちら、初めてのヨーロッパを満喫することができた。

私たち夫婦が日本を発つ前に、娘が、3泊4日のロマンチック街道のバスツアーを予約してくれており、折角だからと、最終宿泊地のフランクフルトを、もう一泊追加予約してくれていた。その、ロマンチック街道のツアーは、フランクフルト→ローデンブルグ→ノイシュバンシュタイン城→ミュンヘン→ハイデルベルグ→ブルツブルグと楽しい旅であった。そのツアーも終えて、フランクフルトに戻ると、サッカーのフェデレーションカップとかで街中が盛り上がっており、我々夫婦が宿泊したホテルにもギリシャの選手が宿泊しており、サポーターも沢山おり、子どもたちがサインをねだっていた。私には、フランクフルトに戻ったからには、グーテンベルグ博物館に行こうという思いが増してきた。
グーテンベルグ博物館は、フランクフルトではなく、そこから50キロぐらい離れた、マインツという街にあることは、ドイツに来てから分かった。ホテルの部屋の案内で、日本人向けに、電話をすれば日本語ガイドのサービスがあるという説明を読んで、明日起きたら、電話してみようと思った。ところが、朝起きて説明をよく読むと、日曜はそのサービスがないのである。それで、チェックアウトのときに、フロントの女性にグーテンベルグ博物館を尋ねたら、その女性は、隣の男性に尋ねていた。まず、マインツに行くには、フランクフルト中央駅まで行けということで、スーツケースをホテル預けて、二人で出発。フランクフルト中央駅までは、歩く。そして、駅のインフォーメーションに行って尋ねるとマインツ行きのホームは地下2階だという。チケットは自動販売機で買いなさいというので、どうやって自動販売機で買うのかと尋ねると、説明は難しいという返事が返ってきた。

ドイツの鉄道には、改札口というものがない。プラットホームには、自転車ごと入り込んでいる人をみかける。犬もそのまま、乗ってくる。そんな光景に、最初は奇異な感じを受けたものだ。とりあえず、地下のホームにおりて、自販機の前に立つ。マインツ中央駅の表示は見つけたがどうにもよく分らないので、通りすがりの若い女性に尋ねた。お金を入れる、人数を押す、駅のコード番号を押せばよさそうだ。ようやく切符をゲットして、地下2階のホームに下りる。11番ホームに、おじさんがいたので、マインツは、このホームでいいのかと尋ねる。そのおじさんは、ここでいいと言ったのだが、そのうちいなくなってしまった。しばらくして、そのおじさんは戻ってきて、隣のホームに来た電車に乗りなさいといわれ、電車がきたので乗ることにした。 フランクフルト中央駅を出発して、1駅、2駅と過ぎて、電車路線図の通りであるのでようやく安心した。実は、前日ミュンヘンで、ホテルに戻ろうと思って逆方向の電車に乗ってしまったのだった。

電車に乗ってしばらくして、反対側の座席に、5・6歳ぐらいの女の子と、おばあさんが目に入った。女の子は自分と同じくらいの大きさのコアラのぬいぐるみを持っておりミルクをあげる仕草をしていた。自転車まで、乗っけている。おばあさんが、我々に何処に行くのかというので、マインツのグーテンべルグ博物館へ行くのだと答えると、それは良いという表情をした。女の子は4歳だという。そのうち、大きな川の合流する風景がひらけてきた。おばあさんの説明によると、ライン川とマイン川の合流地点だという。そしてその先に大きな大聖堂が見えてきた。グーテンベルク博物館は、その傍だという。

マインツの中央駅に、着いた。私は女の子の自転車を担いでプラットホームに降りる。博物館まで地図もないし、タクシーに乗ろうと思っていたが、そのおばあさんは、両腕を交互にふり、歩けという。そのおばあさんさんが連れて行ってくれるのかと思い、後について行くと、なんとバス乗り場で、バスに乗ってしまうではないか。びっくりしたが、おばあさんは正面を指差して、ふたたび腕を交互に振り、歩けという。正面の先には、建物が立ちふさがっていたがともかく歩くことにした。途中、右に曲がったり、左に曲がったり何度も人に尋ねて、やっと大聖堂にたどりつき、すぐ先のグーテンベルグ博物館を見つけた。

博物館の入り口を見つけて、中に入れたときは本当に嬉しかった。入り口の売店で絵葉書や冊子を買い、2階へ上がり、グーテンベルグの印刷機を再現した機械など、いくつもの印刷機を見学。そして別室に42行聖書が、2冊ならんで展示してあった。世界各国の印刷物を紹介してあるコーナーもあり日本の百万塔陀羅尼や浮世絵、さらに中国の版本の展示もしてあった。三階へ上がると、説明の方が寄ってきて、ここは「バインデング」という。製本関係のコーナーと理解したが、「説明をしましょう」と言われたが下で妻が待っていたので、私は言葉が分からないからと言って断ってしまった。

博物館の案内によると、このグーテンベルグ博物館は1900年にグーテンベルグ生誕500年を記念して、マインツの市民のよって設立され、その後拡充されたようだ。色々な博物館が設立されるが、その後継続・維持が難しい博物館も多いのが現実だが、立派に運営されているのは喜ばしいことだ。

グーテンベルグは、金細工師か飾り職人であったようで、一時マインツの貴族と市議会、ギルドの争いに巻き込まれ、ストラスブルグに追放され、その頃から活版印刷の研究を始めたようだ。マインツに戻ってからも研究、工夫を重ね、活字は鉛を主体として錫・アンチモンなどを加えた合金を鋳型に流し、インクは水性インクでなく顔料を油で練った油性インクを開発、印刷機は、ワイン製造のためのぶどう絞り機やコイン刻印のためのプレス機を参考、開発は困難を極めたが、この発明が広くヨーロッパ中に拡がっていき、のちの宗教改革につながっていったようだ。

博物館を訪れた帰りも、妻は駅まで歩くと言い出し、再びなんとなく駅の方角と思われる方向を目指して何度も人に聞きながらマインツ中央駅にたどりつき、フランクフルトにもどれたのでした。
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